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読書弁

  • 2009/12/02(水) 00:49:29





 大凡一個の人間の慾には一定の分量ある者と思はる。例へば甲なる者の慾心は百斤あるものならば、常に此分量を限りとして百斤より増すこともなく又減ずることなし。併し慾には種類ありて食慾色慾等五官の慾を初めとして無形の名誉に至るまで千差万別あることなるが、其各種の慾心には消長盛衰あれども其総体の分量は固より百斤ならば百斤の外に出づることなし。各人の分量を比較して相同じきや、又多くは相異なる者なるや、未だ断定し難しといへども、余の臆測によれば通例の人間は略々相同じき者と思惟する故に、今甲乙二人の慾の分量を各百斤として之を分析せんに

  ┌ 色     慾    六十斤┐
 甲┤ 修  飾  慾    三十斤├百斤
  └ 其 他 雑 慾    十 斤┘
  ┌ 読  書  慾    七十斤┐
 乙┤ 食     慾    十五斤├百斤
  └ 其 他 雑 慾    十五斤┘
[#罫線の部分は、「{」「}」で括る]

(読書慾なども開析すれば名誉又は五官の慾に帰すべけれども姑く其方法によりて名くるのみ)

 右甲乙二者に於て甲は世に所謂放蕩書生の類にして乙は即ち勉強家の類なり。其総分量は百斤なれば若し甲の色慾減じて五十斤とならば、其十斤だけの分量は修飾慾か又は雑慾の部に入りて其分量の総数を充たすべし。今乙者の雑慾中の色慾にして二十斤を加ふれば則ち読書慾は減じて五十斤となり、色慾増して五十斤とならば読書慾は二十斤となるべし。是等の例は世に屡々見る所にして、勉強家漸次に変じて放蕩家となるが如き此類なり。又甲者といへども読書慾全く無きにはあらず、読書して知識を得、而してそれによりて名誉を得、金銭を得んことを希望せざるもの少し。只々其慾心は内に萌芽を含むのみにて、現はれて実際の慾とならざるのみ。即ち六十斤の色慾あらば其外に六十斤の読書慾を現はさんとするも到底分量上に許さゞるなり。故に一慾起れば一慾消え、一情発すれば一情衰ふ。昨日の放蕩家は変じて今日の勉強家となるも、其放蕩と勉強とは同時に許さるべからざるは勿論なり。

 夫れ人は木石にあらず、誰か色情なからん。人は禽獣にあらず、誰か名誉心なからん。只々恠しむべきは色情無きが如く見ゆる人あり。名誉心は殆ど消滅したるかと思はるゝ人あることなり。即ち語を換へていへば種々の慾心の内に潜んで現はれざるものと、外に出て盛なる者との区別あることなり。此内伏外顕の原因を如何にと探るに、そは固より其人の性質習慣境遇によるものなるべし。幼にして俎豆をならべ礼譲を学ぶ者あり。長じても花にうかれ柳にさそはれ内を外に遊ぶ者あり。是等は一は其性質により(性質とは遺伝を重とし教育にもよるべし)二は其習慣により(習慣とは不適当なる文字なれども幼児より外部即ち四囲の境遇又は自然の薫陶などにて習慣となりたるなり)三は其境遇による(此境遇とは其慾を充たすべき方法の備はり居ると然らざるなり。例えば金銭或は位置等の如し)此故に同種の慾を備へ居る人間が一様に人と為らぬは其筈の事にて、恰も同一の性質を備へたる尊氏、義貞が地を易ふれば敵となりて相戦ふが如し。

 扨人間は右の如く慾あるものなるに若しそを少しにても押へて発せざらしめば、即ち百斤のものを九十五斤となさば其人は神経病を起すなり。(通例の欝憂も皆此理なるべし)其押へる度甚しければ所謂狂癲となり、狂癲の極は即ち自殺するに至るべし。耳目鼻口の慾を制限したるより気狂ひとなりたる例は稀ならぬことにて、少し失望のことあれば不愉快の感を起し何となくふさぐといふことは誰も日々二三度づつは経験する所なり。現に去年のことなりけん今年のことなりけん、外国のさるやんごとなき御方のわりなく思ひつゞけられ其慾のとげられぬ為、仮の浮世をはかなみて蓮の台へと急がせられしは浅ましき限りと思ふ人多かれども、こは人間の免るべからざることなりと思へば、吾妻橋より手を引きて情死すると変りあるべくもあらず。されば如何に癇癖の人なりとて心に少しも不満足なければ狂癲となり、あるは自殺することなかるべし。

 今迄が冒頭にて是からが自分の身に引き合して見る積りでありますから、左様御承知を願ひます。扨自分は如何なる人間なるやといふにおのれのことを判然といひがたけれども、前例の甲乙二者の中どちらに類似するかといふと、寧ろ乙者に類する者と思はるゝなり。然らば自分の性質はもと読書を好む者なりしやといふに決して然らざるなり。自分が多少読書を勉むるに至りしは重に境遇なりしと覚ゆ。そを如何にと尋ぬるに自分は幼少の時より学校へも行き多少漢書の素読もなしたるが、其時分より読書を面白いと思ふたことは一度もなく、随て帰宅の後復習したる例もなし、現に観山翁に孟子の素読を学ぶ時なりけん、翁は自分に向ふて余の幼時は汝の如く不勉強にはあらざりしよと宣ひたるを八九歳の子供心にも記憶し居れり。自分は昔も今も心から底から読書が好きとは思はず。読書よりはおのが気まゝ気随に遊びて暮すを好ましく思へども、何分貧家に生れ一文の金も贅沢には消費し得ざる身分なれば思ふ様に遊ぶこと能はず、併し乍ら多情(多慾といふも同じ事なり)の生れとて此ままに朽ち果てんは我本意にあらず。されば如何にして暮さんやといふに読書して名を挙ぐるの一事なりき。(勿論此時分には金なくては学問も出来ぬなどとは存ぜず、却て学問は貧生の職業と心得たる位なり)これ自分がさきに我読書の方向は我境遇に因て定められたりといひし所以なり。又我思ふ儘に遊べぬからして負け惜みにも貧乏で名を揚げんと企てたるはさることなれども、何故読書といふ方法を取れりやといふにそは習慣によるものにして、幼時より無理に書を読ませられいやながら学校へも行き、又傍ら外祖父などの為に薫陶せられゐたるが為なるべし。只今でも何人か自分に鉅万の財産を与ふるものあらば自分は最早読書といふ一方に傾かざるべし。

 前に一寸多情といふことをいひたるが、冒頭に即ち総論に説き落したれば少し前にかへりてのぶべし。初めにもいふ通り各人の慾の分量は大方相同じけれども、どうも多少は其分量を異にするが如し。其多き者を多情の人といひ、少き者を白痴の人といふ。白痴の人ならば多少其情慾を制限すればとてもと/\其分量が少ければ余り感ぜざれども、多情の人に在ては傍よりは何も気がつかぬことでも其人の気にさはりて欝憂病を起すことあり。俗に之を感じが強いとか、神経が鋭敏に過ぎるとかいふ。自分が慾とか慾心とかいふは皆此感じのことにて、俗の又俗なる語を用ゐしなり。世に狂気となる人多くは皆平生おとなしき人にて且つ考へのある人なり。俗人は右等の人の狂ひ出すを見て「あの人がマア」といふて驚く者あれども驚く方が間違ひにて、此の如き人は感情の多きくせに之を漏すべき即ち実行すべき手段なく方法なき為に、百五十斤の慾心もそれだけ現はれずして狂気となり自殺となるなり。気の換り易き人は一にて失望すれば他に満足すべき方法を見出すことやすし。酒を飲む人禁酒して煙草を喫し、禁烟して又菓子を食ふ、此の如きこそ多情といふべけれ。世人の所謂多情なるものは多情にあらずして深情とか濃情とかいふ方適切ならんか。呵々。

 自分はどちらかといふと多情なる方ならん。(多情とは勿論世俗に所謂に従ふなり)多情なるが故に若し何かの事情により一方に傾けば其方向に固著して他方に向ふこと稀なり。又前に慾を論ずる条に生命の慾を言はざりしが、こは論外として置きたるものにて、此慾は十分の九位を占め居ること何人にても同じことなれば書くも書かざるも比較上差支なしと思ひたれども、こゝに至りてかつぎ出さねばならぬ場合に立ち至れり。即ち多情の人に至りては其多情の為に生命の慾を減殺することあり。他語以て之を言へば生命を軽んずることなり。自分の読書の慾も少しは此域に達し、此慾の為にならば多少は生命を減消するもかまはぬとの考を起したり。自分は固より朝に道を聞て夕に死を恐れざる聖人にもあらず、又此世に生を受けし限りは人間の義務として完全無欠の人間に近づかんといふが如き高尚なる徳を有するものにはあらねども、自分も亦沐猴にあらず、鸚鵡にあらず、食ふて寝ておきて又食ふといふ様な走尸行肉となるを愧づるものなれば、数年前より読書の極は終に我身体をして脳病か肺病かに陥らしむるとは万々承知の上なり。只々今日已に子規生なる仮名を得んとは思の外なりしかども、これもよく/\考へて見れば少し繰あげたるのみにて、今更驚くにも足らざるべし。多情の好男子、多恨の佳女子相恋ひ相思ふの極、終に生命を以て感情の犠牲として刀剣に伏し毒薬を飲むと何ぞ異ならんや。彼は未来に於て一蓮互に半座を分たんことを希ひ、これは今生未来に於て能く名声を竹帛にたれんことを願ふの差あるのみ。斯く一生の目的は一巻も多く読み一枚も多く著すにあれば、只々此病の為に日月を縮められ其目的を達し得ざるを憂ふるのみなり。若し今一年廃学して後に五年となり十年となりの年月を延ぶるを得ば宜しけれども、さもなくば自分は一日も書を読まざるを好まざるなり。或は今一年廃学したる為に後に一年と一日でも命を長くすれば一日だけの得ならずやといふ人あるべけれども、そは損得の理論にして感情の理論と損得の理論と両立せざることを知らざるものなり。自分の多情なる、徒然に一年の長日月を経過するは一刻千金に折算して八百余万円を浪費するよりも惜しく思はるゝなり。理に於て為すべき事も情に於て為し肯ぜざること数々なるは改めていふ迄のこともなかるべし。自分は一字も多く読みたきは一生の願なれども、其願は一刻も早く成就せんことを冀ふものなり。近欲(チカヨク)は遠大の利にあらざるは万々承知なれども、其近欲に迷ふて一年も早く書を読みたきは感情の然らしむる所、自分ながら又已むを得ざるなり。斯く言はゞ或はそは汝が我儘なり、得手勝手といはれんかも知らざれども、其我儘も中々に得手勝手ならざる所以を以前の議論にあてはめて論ぜんとす。

 今自分をして一年廃学せしめんか、自分の慾の中の一大部分なる読書慾を全く減却し去る者なれば、其代りに来るべき六十乃至七十斤の慾は何なるべきや。人は自分に種々の仕事を教ふれども、我感情の承知せざるを如何せん。我呂尚にあらず、又天下第一の愚者にもあらず、釣を垂るゝ終日空しく痴魚の欺かるゝを待つを欲せんや。我性朽木の如く彫すべからずと雖も、宰我の如く昼寝ぬる得んや。或はたゞ山野に※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)せよ、林間に遊猟せよと勧めらるゝ人々も多かれども、そはたま/\には心慰む方もあらん。毎日々々かくては送られず。固より天性発明なる人(genius アル人)即ち天稟の聖人ならば山野に遊び江湖に泛びて高尚深遠の哲学を発明する所多かるべけれど、頑愚痴迂なる一寒性、いかんぞ古人の遺書によらずして秋毫の屁理窟だもひねくり出すことを得んや。若し強ひて自分をして廃学なさしめば其結果如何は前論に照して明なるべし。狂たらんか、痴たらんか、将た恨を呑んで鬼たらんか。噫槿花は黄昏を知らず、※(「虫+惠」、第4水準2-87-87)蛄は春秋を知らず。五尺の人間無限の天地に生れて生命の長短を論ず、強者弱者を侮り寿者夭者を笑ふ、豈蟷螂の蟋蟀を侮り寒氷の泡沫を笑ふに異ならんや。

 客問ふて曰く、然らば君をして廃学せしむる方これなきか。曰く、有り。只々行ひ難きのみ。何ぞや。曰く、我に鉅万の財を与へて思ふ存分に消費せしむるのみ。客瞠若たり。我曰く、誰か我に鉅万の財を与ふる者ぞ。天を仰いで呵々として大笑す。

 客又曰く、君何ぞ得手勝手なるや。君の一身は是君の所有にして君の所有にあらず。君は君の家を思はざるか。余黙然。君は君の先人の名を揚ぐるを喜ばざるか。余黙々。是等は西洋流に従ふて姑く顧みずとせん。君猶慈母の堂にあるあり。頼む所は只々君のみ。愛する所は只々君のみ。君一身を捨てゝ将に慈母を如何せんとするや。答へて曰く、請ふ言ふをやめよ。我平生務めて俗縁を絶了せんとす。君今却て已絶の絃を続がんとす。我心腸為に寸断せんとす。請ふ我をして狂たらしむるなかれ。嗚咽之を久しうす。

明治二十二年八月十五日褥中筆を執りて記す
  こゝに消えかしこにできて物質のへりもせずまた加はりもせず



底本:「日本の名随筆36 読」作品社
   1985(昭和60)年10月25日第1刷発行
   1991(平成3)年9月1日第10刷発行

底本の親本:「子規全集 第十二巻」改造社 1930(昭和5)年11月初版発行

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